『来待石』の歴史
大森-来待層
「来待石」は、宍道湖の南岸(松江市宍道町の来待地区周辺)に分布する「大森-来待層」で採れる1,400万年前(新第三紀中新世中期)の火山堆積物が海底に堆積して形成された「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」です。
「大森-来待層」では、サメの歯、貝類、樹木など、堆積当時の生物・植物の化石が産出します。1,300万年前に絶滅した哺乳動物 パレオパラドキシア の化石も発見されています。
来待石の堆積模式図
発見された化石
クジラの肋骨(ろっこつ)の化石 【当館蔵】 | ||
パレオパラドキシアの下顎(したあご)部分の化石 【当館蔵】 | アオザメの歯 【当館蔵】 |
古代~中世
大森―来待層で採れる来待石は、豊富な埋蔵量を有しています。石質が均一であるため、良質な石材として利用されてきました。
古くは、5世紀ごろ(古墳時代中期)には古墳の石室や石棺(せっかん)に使用されています。中世には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔などの石塔(供養塔・墓石)や、石段・石垣などの建材としても使用されるようになりました。
(左)採石されて間もない来待石 |
(右)採石されて数か月を経た来待石 |
採石された来待石は青味を帯びた色をしていますが、次第に趣(おもむき)のある色合いに変化していきます。 | |
下の空古墳(松江市宍道町上白石)の石棺式石室 (来待石で再現製作された2/3模型)【当館蔵】 |
伝 土御門親王墓の宝篋印塔・五輪塔 (松江市宍道町東来待) |
江戸時代~現代
江戸時代になると、来待石は「御止石(おとめいし)」と呼ばれるようになり、松江藩の許可がなければ藩外へ販売することができない石材であったと伝えられています。松江城にも、石段や水路枠などの建材として来待石が使用されています。その他、石仏などの彫像、庭園石材、生活用具などにも広く使用されるようになっていきました。
江戸時代後期には、日本海航路や陸路によって建材や石灯ろう、狛犬(こまいぬ、出雲唐獅子)などを始めとする様々な来待石製品が、全国各地へと盛んに運ばれていきました。
来待石は現在でも、国指定の伝統的工芸品である出雲石灯ろうや、石粉を利用した石州瓦・石見焼の釉薬(ゆうやく)の原材料として知られています。また、彫像や石碑などのモニュメント、建材などにも幅広く使用されています。
松江城の水路(松江市殿町) |
松江城石垣の排水溝部材 【当館蔵】 |
袖師地蔵(そでしじぞう)※右側 (松江市袖師町) |
大橋川護岸工事で使用された敷石 (松江市向島町) |
石州瓦 |
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